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電子美術館のQ&A

56 美術は客観的か、それとも主観的か

二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
2011/4/5

――やぶから棒にですが、日本では「意見」というものに客観性を多く求めすぎませんか?

ネットをみると、客観性なるものへの過度な信頼があるようにみえます。誰かが意見を書くと、「それは君の主観にすぎないでしょ?」という突っ込み方で門前払いし、全否定する論法がみられるからです。

――個人的な発言をなぜか許さない風潮が、気になるのですが?

事実やデータを要する以外でもそうです。「君はそう思う、僕はこう思う」という、当たり前のやりとりに進むことが実はあまりありません。「自分の考え対他人の考え」ではなく、「正しい考え対間違った考え」という発想です。意見が共存せず、相手を消し去る争いに陥って。その争いに、「主観的な人は間違っている」という善悪判断が使われています。

――ネットが発達してから、そういう傾向が起きたのですか?

ネットが普及しない頃のテレビ番組でも、素人参加のスタジオ討論会などで、似た傾向がみられました。指名された発言者が、「私見ではありますが」とか「あくまでも自分が考えたことですが」と、いちいち前置きして話すことが昔からけっこうあったのです。

――私見以外のことをしゃべって意味があるのかと、逆に突っ込みたくなりますよね?

思っていたことを言うと、「それは単にあなたの意見にすぎないでしょ?」とか、「個人的意見は公共の場では不謹慎です」と反発される空気は、昔からあったのでしょう。反発を回避しようと、発言者はけん制の前置きを入れたのでしょう。

――それは、日本人だけにみられる行動なのですか?

若者討論番組をみた限りは、日本に顕著でした。というのも、アジアや欧米から来た年齢の近い留学生たちは、当たり前に自分の意見を述べていたからです。大まかにいうなら、外国の学生はセリフをしゃべり、日本の学生はトガキをしゃべっていました。

――トガキですか?

日本人学生の発言には、一般論をまとめたような言い方が目立ちました。「私が見た世の中はこうです」とは言わないで、「世の中はこうなっていますよね」という持っていき方です。世間の人々の目で見た一般説を、自分の見解に代用させて、客観的な正当性を担保するかにみえました。持論を語らず、世論を語っていました。

――世間一般の説を言い換えたのなら、聞く方は同調するしかありませんよね?

結果的に、発言者の立ち位置がみえません。プレイヤーではなくレフェリーを演じたいような、自分に距離を置く言い方です。「日本にとって必要なことがあるはずだから、それをどんどんやっていくべきだと思います」などと、具体性のない、意味のないトガキをしゃべっていました。自己の透明化を理想に置くこのやり方は、例えば国内ジャーナリズムに広くみられる中立報道の建前論や、日本製オーディオ機器に顕著な原音再生のあくなき追求とも似ていました。

――そもそも、「客観的な意見」なんてものは現実にあるのですか?

あるわけがありません。人が口述しようが、記述しようが、全ては主観的な内容です。「客観的な意見」というフレーズには、「黒い白馬」と似た論理矛盾があります。そういえば「中立な製品」とやらも、結果は片寄っていました。例えば原音忠実再生を宣伝した国産高級ヘッドフォンは、ほとんどがドンシャリの中抜けか、サシスセソがきつく鳴るカン高いサウンドでした。

――架空の客観性で他者を封じる、そうする人の動機は何ですか?

自分が正しい側にいるとの絶対感でしょう。さりとて、自分の意見はまとまっていない。そこで、とりあえず他人の意見を葬り去る手っ取り早い便法として、客観性の概念に頼るのかも知れません。起きている現象は、小さな違いも許さない不寛容と、完全同化の徹底です。

――客観の名で主観を悪者扱いする、そういう国民性ができた原因は何ですか?

この付和雷同の気風は、近世に国家を治めた国づくりの過程と、何か関係がある気がします。おそらく戦国時代よりも後の、江戸以降に定着した庶民感覚なのでしょう。社会学の領域ですが、「和の精神」がもたらせた、もうひとつの側面だとの感触があります。

――古代に端を発する何かが、その根底にあったりはしないのですか?

割とよく言われてきたのは、日本語の文法上で主語がみえにくい点でした。例えば「ネット上に良いサイトがあったよ」という場合。他の国では「私はネット上に良いサイトを見つけたよ」の表現が一般的です。「サイトがあった」ではなく、「私が見つけた」がメインになっていて、行為者を示す主語がつきます。

――日本語には主語のない、他人ごとのような言い方が多いとの指摘を聞きますね?

「誰が」「Who」を省き放題の日本語と、省きにくい外国語の差に由来する説が、日本無責任論として言われた頃があります。実際に法律解釈や裁判などで、省かれた主語が誰に当たるかが争点になることもありました。

――私見を追い払う国民性は、美術にも関係していくでしょうね?

日本では中庸の凡がまず喜ばれます。個性の強いやつはやめておこう、クセのあるのは外側にどけておこう・・・。私見を敬遠する性向は案の定、美術にも反映しています。言いたいこと、やりたいことが特にみえない微妙な作品を善として、キャラの立つ作品を悪とするモラルが堅固です。これが、美術の内外格差をつくっています。

――中庸という語は、日本の文化について回りませんか?

世論調査などアンケート回答の分布にも、それは表れます。「そう思う」「そう思わない」の選択肢は選ばれにくく、「どちらかといえばそう思う」「どちらかといえばそう思わない」という、弱めた表現が多く選ばれる傾向です。「どちらともいえない」や「わからない」の回答が目立って多いのも、外国にはあまりない日本の特徴だとか。どこで切っても、中庸の凡が好まれる傾向があります。

――それなら美術の作風についても、中間的な弱い表現が好まれるのですか?

日本人の印象派好きはなぜ起きるのかという説明に、そういうのがありました。印象派の絵は、具象でありながらデフォルメ変形もされています。具象で客観性を確保し、デフォルメで主観を味付けした、中間的な、いいあんばいがウケるという説・・・。「どちらともいえない美術」というポジションに、印象派はハマるのかも知れません。

――「私はこう思う」と主張する美術作品は、持論を述べている時点でアウトですか?

セリフのようにズバズバ発言する作品ではなく、トガキのように静かに流れて気にならない作品が、日本で好まれているのは事実です。

――話術と美術が、ひとつの国で同じ構造になっていたわけですね?

ずっと考えてきたことがあります。昔も今も、日本で人物画が嫌われ、静物画と風景画が好かれる傾向です。私の解釈は、作品と目を合わせなくて済むメリットではないかと。

――肖像画は、目がこっちを見つめているからですか?

「目は口ほどにものを言い」のとおりで、人物画の目はセリフを投げかけてきます。絵に目玉が描かれると、私見を語り出し自己主張するのです。私見の自己主張そのものが嫌いな人が、もし人物画が嫌いだとすれば、これはわかりやすい話なのかも。それが静物画や風景画だと、平穏なトガキとして受け取れ、求めていた客観性が得られると考えられます。

――他国では逆に、人物画が優先的に好まれるのですか?

欧州では、少なくとも非優先ではないようにみえます。ガンを飛ばす作品でも、日本のようには嫌われません。美人女性の美形や、幼児のかわいい顔とは違う、怪物的な顔の絵も買われていく点は、やはりちょっとした驚きです。

――でも日本にだって、世界の色々な美術が入ってきていますが?

外国から持ち込む分には、かなりの多様性が許されはします。一方で、国内から生まれる作品は何となく一様で、生産地の制約を受けた感じ。美術の多様性と異質共存に関しては、日本単独でやっても中庸に集結する力に抗しがたい限界はあるようです。

――美術館もその渦中にいるのですか?

私見の主張をプラスとみる国と、マイナスとみる国の違いは、むろん美術館にも表れます。スポーツは内外で方向性は同じですが、美術の内外差は価値観や採点基準の逆転までも含みます。よくあるのは、外国作品は独自説をしゃべるセリフ型でそろえ、国産作品は一般説をしゃべるトガキ型でそろえた美術館です。「芸術って何ですか?」への回答がダブルスタンダード化して、芸術が何なのかが最後までわからない国民を多く生む土壌になっています。

――自説をズバズバ発言する作品が、今後は国内から産まれてくるように変わっていきますか?

話術と美術の関係に、可能性が示されているでしょう。「あなたの主観にすぎないでしょ?」の一言で葬る日本型正義が正義でなくなった頃に、国産美術も変わっていく順序ならありそうです。ただし、許されてから乗り出すことが、果たして創造なのかという問題は残りますが。

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