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電子美術館のQ&A

58 画家は心を込めて絵をかくべきか

二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
2011/4/22

―― 「心を込めて絵をかけ」というのを聞きますが、あれはどういう意味ですか?

「心を込める」は「美術あいまい語録」のひとつで、意味は一人一人違っています。ごく大ざっぱに分けても、「@入魂の気迫」と「Aなにわぶしの叙情」があって、方向性は正反対だったりします。

――具体的に、美術作品の作り方をどうしろと言っているのですかね?

指導で多いのは、「Bきちんと作る」の意味でしょう。「正しいデッサン」「しっかり描き込む」「荒くなくてていねい」「粗くなくて細かい」式の、いわゆる「良い絵」のすすめです。意向をさらにくめば、「常識を踏まえる」「自分勝手をつつしむ」「目立ちたがらない」「個性に走らない」「客に嫌われない」「審査員にそむかない」・・・

――それって、封建道徳のまんまじゃないですか?

「心を込める」「心を打つ」の言葉は、保守的、守旧的な使われ方が多くなっています。人柄の良さだとか、お行儀の良さなど、マナー混じりの話。そして顧客サービスの「まごころ」へと、混線しているふしがあります。「既成の概念を超えろ」「自分を超えろ」「型を破れ」「予定調和をぶっ壊せ」の創造的意味で、心の話を言い出すケースはたぶんないでしょう。

――心打たれた体験を元に芸術を語ることに、何かまずい点があるのですか?

「心を打った」「感慨を受けた」「ハートに届いた」「魂に響いた」は、いずれも相手との同調にすぎません。自分と同じタイプと出会っただけの話。創造型の人が心打たれるのは創造作品、守旧の人が心打たれるのは守旧作品、自分と同じ側に心打たれるわけで、反対側には心打たれません。

――でも心を打つと聞いただけで、絶対的な超越した尊いものを感じるのですが?

例えばテロリストの鉄の意志に、別のテロリストが心打たれ、鳥肌立って感涙にむせぶとしても、それは当たり前のことです。誰かの心に届いて涙が流れた事実をもって、テロ行為が尊ばれても困ると思いますが・・・

――心を打つだけなら、360度どんな作品でもあり得るわけですか?

「感動した」と同じで、一種の自己陶酔です。同類の共感と仲間意識。そして立場と気分しだいで180度変わるから、指標には使えません。世界の創造アートの現場では、心の有無を頼りにして作品を見ることはやらないでしょう。

――世界の歴史名作はきっと心ある作品だろうと、普通に考えてしまいますが?

ゴッホやピカソやダリに、当時の誰も心を感じていない、というのもヒントです。当時の人々は、ゴッホに弱さを、ピカソに狂気を、ダリに悪意を感じました。心で採点すれば、それらは片っ端から至らぬボンクラか問題児、不良にすぎません。彼らの作品は心を踏みにじっているので評価が高いのだ、と考えれば史実に合います。

――名作だから心を感じなきゃと、見る側が勝手に先入観を押し当てているのですね?

ただし私は、「日本の心」のマイナーな部分は信じられると思っています。先の「@入魂の気迫」に日本で生まれる特異な造形的処理やノリがあって、一部の古典美術にも顕著に出ているとみています。

――精神性を重視するスピリチュアリズムなら、外国にも普通にありませんか?

日本の気合いにみる「間の取り方」は、欧米にはないのではと思います。西欧流儀で日本美術を見ると、表面的な説明しやすい部分に流れてしまうきらいがあって。例えば、19世紀に浮世絵を見た欧米の人は、ジャパニーズ・エキゾティシズム、いわゆるジャポニズムに強く反応したと考えられます。

――浮世絵は当時何が理由でウケたのか、今もはっきり整理されていませんね?

欧米の人がアフリカ美術を見る時と似た感覚で、日本美術の異国情緒に魅せられたと推測できます。アフリカのボディペインティングやリングと裸足に対して、ジャポンのキモノやマゲと下駄。エキゾティックなモチーフやスタイルに目が奪われた陰で、日本的な気の入れ方は案外スルーされたままです。日本人はその部分に敏感なのに。

――日本的な気は、浮世絵のどこに入っていたのですか?

例えば快活な線です。浮世絵には版画以外に手がきの肉筆画もありますが、気合いの線はどちらも生きています。

――西欧にはない精神の込め方が、江戸時代には普通に転がっていたわけですか?

線に込める気は、もっと前からあった日本古来の伝統かも知れません。一本の青竹を日本刀でスパッと切った透明感を思わせる何かです。今のにぎり寿司のつくり方や盛り方にみられるシンプルな美学も、何となくその延長かも。濁らず、澄んでいる。この手の町人気風は、武士道などとも親しいものだったのでしょう。

――ヨーロッパでブームになった浮世絵は、当時の印象派にも影響を与えましたね?

浮世絵は、前衛画家たちに参考にされました。ゴッホも浮世絵を買い込んで模写しています。でもやっぱり、異国情緒と作画のおもしろさを追った感じ。元の浮世絵はスイーッとなめらかに引いた線なのに、ゴッホの線はガサガサ、ベタベタと塗っています。寿司を油でいためたような感じ。

――西欧の油絵は浮世絵とは逆に、線を使わない作品が多いですよね?

現実世界には当然、独立した単線など存在しません。目に映る光景を模写したヨーロッパのリアリズム画には、輪郭部にタッチを無数に重ね、ちょびちょび、ぼやぼや塗り込んだ「面の絵」が多くあります。西欧の銅版画にしても、面でとらえる造形が主流。それに対して、毛筆で一筆書きにスーッと引き切った日本画の「線の絵」はユニークです。線自体が有機的な造形の役を果たしています。

――今の物質的で無国籍な現代美術には、有機的な線はあまり出てこないようですが?

日本で作られる現代美術は、「Aなにわぶしの叙情」を除去してグローバリズムを求める傾向があります。「センチメンタルから脱して、ドライに行こう」と。作品中に線を使うにしても、定規で引いたような硬質が好まれるのは、そのフィーリングと関係があるでしょう。これは今の流行です。

――現代美術では、入魂はどこへ行ったのですか?

「Aなにわぶしの叙情」を捨てる時に、「@入魂の気迫」も道連れで捨てられていると思います。この二つに相関関係があるかはわかりませんが、結果的に現代美術には情を引きずったメソメソ感がない代わりに、ハッシとした瞬発力も低下して見えます。現代作品が斬新に破天荒に暴れている割には、それほど客に話しかけてこない無口な理由かも知れません。

――今から始める画家は、絵に心を込めるべきですか?

私の考える絵の心とは、俗に言う絵心とは逆に、破壊されテンションが上がっている意味です。人の世界に、ちゃんと事件が起きている絵。しかし、そっちに作者たちを引率するわけにもいかず、一人一人がなるようにしかなりません。

――絵の心とは、人類共通の話のようで、意外に個人的な問題なのですね?

芸術の本質はオリジナリティーであって、ハートではありません。なので心うんぬんを言ったとたん、客へ対価を求めるサービス精神へと向かいがちです。人当たりの加減と品質の次元へ、訓辞も流れやすい。ひと様をレジへと走らせる商品価値と顧客満足度。お客に失礼のないように・・・。しかしその優しい心づかいは、結局は変なことはやめましょうとの守旧の意向を補強し、創造をくじけさせる方向をとってしまうのです。

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