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電子美術館のQ&A

61 売れっ子美術家の絵はなぜショボいのか

二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
2011/6/19

――芸術の本質といえば、オリジナリティーでしたね?

そう判断した根拠を2つだけいうと、歴史名作には必ずパイオニアの要素があり、消えた方はそれが乏しい点がひとつ。もうひとつは、オリジナルが稀少な点。珍しいものほど見たくなるのが人心だという、長期の統計的な蓋然性です。

――オリジナリティーがあれば、とりあえずは歴史名作に匹敵するのですか?

オリジナリティーは最低ラインにすぎず、一番欲しいのは影です。

――その影は、例の得たいの知れない画圧というものに関与しましたね?

作品にもぐり込む、かげった重く怪しい陰陽は、絵を壊してのみ生じることを前に話しました。何かを破り、超えようとする意志が瞬発するピークパワーです。造形にいそしむだけの生徒作品は、反対に明るく天真らんまんで、影差す鋭いピークは生じません。しかし、壊すだけでは足りないのです。

――生きた線というのは、その話のどこに入ってきますか?

実は、それもオリジナリティーと同列の一要素で関わります。芸術性の内訳は、多層構造的です。つまり、オリジナルであっても足りない、線が生きてもまだ足りない、壊してもまだだめ。さらに必要なのが、密度感です。

――ぱっと見て作品が充実している、あのわかりやすい違いですね?

その密度感は、制作中に逃げる危険が常にあります。例えば私の占いは簡単で、パーツ間隔で推定できます。画面内の近接するパーツAとパーツBが、何となく離れたら密度低下。むろん、形と色など目立つ要素も大事です。しかしパーツ同士の距離が空くと、どんな造形を用意しても失敗です。

――その距離とは、何センチですか?

例えばP10号(53×41センチ)のミニ作品で、線の腹に別の線の端を突き付けた時。2つの距離が3ミリまで近づけば密度感が保てます。これが8ミリなどポカッと空いたら、一転して絵が空虚感をかもし出すのです。作品に言わせたいことが逆を向いてしまい、これが芸術を妨げる地雷原なのです。

――差の5ミリ分を、後からかき足してもだめですか?

別の線で取り返すわけですが、まず挽回できません。パーツ間を詰めきれない時は、心理的に負けているからです。おじけづいて腰が引け、攻めきれずに守りに入った自分がいます。堂々としたつもりでも、線を引き始めるその瞬間に、びびりが出てしまっているわけです。

――その失敗は他人が見て、すぐわかるのですか?

一目で伝わるでしょう。野球でいえば、詰まった当たりの凡打の印象です。何とかヒットになっても、会心のホームランに遠い・・・。全然だめではないけれど、イマイチぱっとしない。仏は作れても、魂が入らない・・・

――どういった時に、その失敗が起きるのですか?

まとめて絵をかいて多発しました。1枚に5日かける絵を、毎日1枚ずつ始め、5日後に5枚同時並行で、その日から1枚ずつ完成する手順。この流れ作業で、ゆるんだ絵が続いたことがあります。

――まとめて作ると、手慣れていく利点がありそうですが?

単位時間あたりに多作すれば、アベレージは上がる傾向があります。作品同士が互いの失敗の滑り止めとなって、プレッシャーは軽減。気の重さがやわらぎ、筆を持つ心は軽やかで、しんどくない。この絶好調の幸せ気分は、作る喜びへと結びつくでしょう。でもその安楽感で、ピーク値が下がるのです。「1枚がだめでも、次の1枚があるさ」という安心で、力が一筆に集中しないからです。

――急ぐ気持ちは、悪影響しないのですか?

それもあったと思います。急ぎはノルマ化し、手先でポンポンこなす方向へ流れます。誰でもどんな分野でも、急ぐと踏み込みは浅く、詰めは甘くなるはず。テキトーで雑になる話ではなく、体ごと突っ込む前のめりの切迫感が消えるのです。駆け足で済ませて、表面のみ飾って終わる感じ・・・

――踏み込みの浅さを、年季で解決できないのですかね?

年季は、作風の統一感や、流ちょうさや味に出ます。しかし一瞬のひるみは、年季とは無関係に起きます。例えるなら、スキージャンプの踏み切りタイミングがそうで、人一倍訓練したベテラン選手でも調子が合わず、そのシーズン何度やっても飛距離が伸びない・・・。そんな感じです。

――「絵はたたかいだ」の言い方は、その踏み切りの重圧とのたたかいを指すのですか?

その通り、といきたいのですが・・・、「たたかい」を言い出した人の線が死んでいる場合は、別の話かも知れません。

――絵は、それほど微妙に心理の影響を受けるものなのですか?

それは「絵の魅力とは何か」と同じことです。絵画は手指の動きで描かれ、心情をダイレクトに反映し、顔の表情のように変化します。マイナスもダイレクトに拾って一定せず不安定だから、作者の負担になりやすい。そこで足で塗ったり、絵の具を投げつけるなど、操作を間接的にして偶然性に頼る技法が考案されたわけです。手指の心理動揺を回避して、絵のびびりをカバーするアイデアともいえます。

――絵のおもしろさは、絵が負ける危険性にあったのですか?

なるほど、そうかも・・・。立体造形のメカニカルな理性とは違い、絵は人間の生の声に似ています。絵画は彫刻より感情的。かつ感傷的。スキージャンプの踏み切りや、重量あげの呼吸、野球の配球などと似て、一人の心の動きや精神性を見つめるおもしろさが、絵画鑑賞にはあるのです。

――人気の渦中の売れっ子は、踏み切りに集中できずに、絵の飛距離が伸びないのですね?

ネームバリューを得て、B級作を多発する可能性は、美術家の全てに平等にあります。幸か不幸か、ボルテージ低下分はネームバリューがぐーんと持ち上げて帳消しにするから、一応すんなりと超A級で通るわけですが。

――それで人気ブームが去った後で、一転して作品が白々と感じられたりするわけですか?

売れっ子美術家の新作展で、がっかりした批判がいっせいに寄せられることが案外あるのは、そういうことだったのかも知れません。

――ブームの渦中にいる間は、自信満々なはずですよね?

人気維持でこなす駆け足の消化制作もそうですが、ファンクラブができて客に喜ばれる前提の制作では、作品に多感なギザギザは出ないでしょう。美術として認めるか認めないかを、人に迫るような真剣さはないはず。夢みるみずみずしさ、必死の飛躍、もれ出る悪意や、破滅と背中合わせの恐怖の相なども、作品からもう消えているでしょう。

――何だか、ハングリー精神みたいですね?

絶望的な負荷に圧殺されるギリギリに立たないと、ただでさえ鈍くなった現代人に芸術は困難です。

――でも売れっ子批判は、「有名人への嫉妬だろ」とファンに逆襲されそうですが?

出る杭のけん制や、個性の足引きと違う場合が問題です。批判が出たがっかり作品とやらを私も見たことがあり、「やっぱりそうか」と、作る身には覚えがありました。わずかなスキから水がもるように、密度低下は襲います。人間としてよりも業者として作る仕事はスキだらけで、自分の腕だけ信頼しても無駄なのです。

――自分の腕を信じて絵がだめになるのでは、どうしようもありませんね?

画家をけなす言葉に「セルフコピーしている」というのがあります。3ミリまで迫れず8ミリ空いた絵は、ショボいセルフコピーです。自分の作風にならっただけの惰性というか。自分ふうは堅持しても、何も切り開いていません。見る人はいいことを言います。

――その「切り開く」の意味は、アイデア発明の意味とは別ですね?

前作より上のピークを求める意味であって、作風を次々変える意味ではありません。前進しないと、ピークは更新されず、作品は想像以上にガタ落ちします。画家がナイスな造形を思いついても、仕上がりの詰めでこぎれいに萎縮する可能性はつきまといます。

――歴史名作は、セルフコピーをはねのけた作品なのですか?

そんな感じかも。当代名人がどどどっと作って存在感を示しても、後世に忘れられるのはよく起きます。時間は残酷という以前に、作品は一個単位で立つしかない真理です。派手にじゅうたん爆撃しても、年月たって世代交代し、知古の友も消えれば、晴れの表舞台から降りていきます。

――いったんVIPの地位を得たら、後はネームの効力で安泰に思えますが?

それは短期の場合です。そう思って見れば、生誕130年のピカソも長期モード移行後に、B級作品は表舞台から消え始めています。切り開く意志を露骨に焼き付けたギザギザ作品に、後世の関心が収束していて。惰性作品は、研究家やコレクターの特殊領域へ片づけられていく感じ。例えば超大作『イカロスの墜落』は、絵も話題も日本語ネット上に一件も出ていません。(編集注:2011年6月現在調べ)。

――激烈がウリのピカソと違って、いやしがウリの画家はどうなりますか?

早晩歴史に消えています。ルーブル美術館にも、きちんと描けていながら、もう訴えるものもなくなって役割を終えた、平穏な古典絵画がけっこうあります。

――人間は、いやしの作品を必要としないのですかね?

テンション高い作品中のいやし成分が兼務して、足りるのかも知れません。そのヒントですが、珍奇で激辛な絵でさえ、年月を経ると目に優しく映っていく傾向がそうです。

――昔は衝撃だった作品も、今の目で「あれ、この程度か」と思ったりが、けっこうありますよね?

パリ万博でゲテモノ扱いもされた『ゲルニカ』を、今や安らぎのエモーションで語る人がいます。絵の泣き笑いのすき間から、ほっとする平和感が流れてくるせいでしょう。お花畑の図よりも、爆撃の図に平和を感じるのが人間です。

――端正に見える絵でさえ、名作にはどこか強いクセがありませんか?

古典系たちは「美麗」が名作になると信じて、現代系たちは「先取り」が名作になると信じています。実際の歴史名作は偏屈で、時代のくくりに溶け込まない、時代と心中しない超然としたストレンジャーが身の上です。ところがその偏屈の変人らにも、密度感というハードルは昔からありました。

――ちょっとわからないのですが、時間をかけて作る方が絵は良くなるということですか?

時間をかければ、ていねいで細かい、精度の高い仕事ができる話とは全く違います。むしろ、精密な絵は主張の焦点が分散して、実は淘汰されやすいのです。

――ならば、考える時間が増えるから良くなるのですか?

アップテンポで作ると、筆の操作で生じる抵抗を、乗りのどさくさで突っ切れます。画家の心理負担は、ガス抜きされて。しかしスローテンポで作ると、抵抗をまともに受けるから、画家は必死に押し返します。すると攻防の跡が絵に濃く宿り、ガチを感じさせます。人は長時間かけそれを読み取るので、時代が変わった折に、ガチ攻防の跡がない絵は退き、評価が入れ替わっていく・・・。一世を風びした「業者の絵」を、「人間の絵」が逆転していく・・・というのが私の仮説です。

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