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電子美術館のQ&A

65 ダダ運動タイプ、現代美術のちりとてちん

二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
2011/8/6

――前回、現代美術が2種類あると知って、カルチャーショックでしたが?

芸術志向の「三大画家タイプ」が、まずあります。そこに新たに、反芸術志向の「ダダ運動タイプ」が加わりました。

――ダダイズムという運動は、近代美術史にありましたね?

シュールレアリスム運動の前の事件が20世紀ダダ運動で、その路線上の新興美術に、私が「ダダ運動タイプ」と命名しました。ダダとは物心つかない子がやる無為の行動を指し、欧米ポップスの歌声「ダー、ダー」も関係があるようで、日本語の「駄々をこねる」も似た意味です。本家20世紀ダダ運動は、文明国の高度なエスプリを含みました。

――わけのわからない現代美術も、2つのどちらなのかを見分ければ整理できますか?

『ゲルニカ』対『古タイヤ積み上げ』に代表されます。前者の三大画家タイプは個性の強さがウリ、後者のダダ運動タイプは個性の放棄がウリ。差異化するカ所は、前者は形と色、後者はコンセプト。客が違和感を持つカ所は、前者は作品の造形に対して、後者は作品の存在に対して。

――付帯情報にまで、作品の価値が広がった話でしたね?

あくまでも一個の作品が大事とする三大画家タイプに対し、作品より大事な何かを信じるのがダダ運動タイプ。大事な何かは要するにブランドネームで、価値があるとする定義こそがアートの生命で、人の心を動かす力だ、というのが主旨です。言い換えれば、作品単体の中味で人を動かすのは不可能とする言い分です。人は美術の中味まで、いちいち見ていないという信条・・・

――「現代美術は進みすぎだ」という苦情も、2つに分けてから整理できませんか?

三大画家タイプは、実は先進的ではなく個性的なのです。その個性までは許せた目で、次にダダ運動タイプを見ると、鑑賞者は今度こそついていけない気になります。それも当然で、おもちゃ屋で買った1800円のキューピー人形が、なぜ美術館に入ると1800万円の美術に化けるのか。キューピーにサインを入れた人が、なぜ巨匠に君臨できるのか・・・。世の中がおかしくなったような不安感が起きるはず。

――成り金的なアートなら、不快感もでるでしょうけど?

作者はニンマリです。例えば、ゴッホに引っかけて・・・。「ゴッホは不快な画家だった。キューピー人形アートに不快との批判も出てきた。だから作者はゴッホに匹敵する・・・」。「ピカソに首をかしげる人は多い。キューピー人形アートに首をかしげる人は一段と多い。だから、作者はピカソを一段と超えた・・・」。

――そんな変てこな自信を、本人は本気で持つのですか?

けっこう本気で胸を張る人もいれば、おふざけギャグの人もいます。

――でも、キューピー作品は芸術ではないのですよね?

反芸術です。

――現代美術についていけない客は、どう対処しますか?

「ついていけないなら無視」のアドバイスは、完敗のススメです。というか、それだと反芸術にも芸術にも出会えません。芸術と無縁の人生。そんなの悔しいからと、見るコツだけは欲しがる人が多いはず。

――現代美術の鑑賞法を、読書で学べば早いのですか?

学ぶ前に、ついていけない作品が三大画家タイプか、ダダ運動タイプかを整理しておけば、混乱はかなり消えます。

――どちらの作品についていけない場合も、実際にはあるわけですね?

ひとつの脱落パターンは、近世の写実絵画へ傾斜した信心で、つまり西洋かぶれの副作用。画家を人間カメラと決めてかかるから、レンズで写らない変形した造形がチンプンカンプン。これが三大画家タイプが苦手な人のパターンです。『ゲルニカ』はインチキということに・・・

――そんな芸術にやっとのことで納得できた人は、今度は反芸術のナンセンスにやられるわけですか?

ナンセンスへの柔軟性は、確かに利いてきます。芸術でないものを芸術と決めてかかるから、何でもない展示がチンプンカンプン。これがダダ運動タイプが苦手な人のパターンです。『古タイヤ積み上げ』はインチキということに・・・

――はっきり言って、反芸術は世の中の害悪なのですか?

ジョーカーです。反芸術を生み出す土壌は、鑑賞者の反応です。画家の個性の有無より先に、地位の有無をみて判断する人々の反応が土壌というわけ。ダダ運動タイプは自分勝手なようでいて、客に合わせています。ピカソの計算されたプロ絵画が、子どもの落書きと区別できない客たち。最高の画家とのふれこみ情報に頼って感じ入る客の行動が、反芸術の出番を用意しているのです。

――確かに、作品がユニークかありきたりかさえ、私たちは見極められませんよね?

具象のゴッホやセザンヌも個性がウリなのに、客は個性に気づきません。あげくに、ゴッホは色が鮮やかだから芸術なのだとか、激しい人だったとか、悲劇的な最後とか、兄弟愛とか、関係ない話が根拠にされて。ついに「絵が有名で高いから傑作扱いされているにすぎない」とか、「絵を有名にした画商や評論家の洗脳工作にだまされるな」と、因果を逆にひっくり返す解釈まで出る始末。

――要するに、人の感性の鈍さにつけ入るように、ダダ運動タイプが出てきたとしか思えませんが?

まあ、その、個性の痕跡に気づくのが遅い人類の特性が、ダダ運動タイプの背景なのは確かです。「芸術なんて全然わからない」のつぶやきは、ダダ運動タイプへの応援歌で。「どうせ誰もちゃんと見ないなら、作品は何でもいいわけだ」と、新しい美術家たちは学習したわけです。音楽や文学ならありえる覆面作家や変名が、美術では全く成り立たないのだから。「客が対価を支払う理由は、名前であって中味ではない。個性をつくる画家は無駄骨折ってご苦労さん。作品づくりより話題づくりの方が、よっぽど売れますよ」と。

――ダダ運動タイプの方が、時代変遷の中でより新しいのですか?

旬というものが、芸術にはなく反芸術にはあり、両者は時間とのつきあい方が違います。芸術は発明しない、論点をずらさない、アイデアコンペでもない、反芸術はその逆。ただ歴史経緯をみれば、コンテンポラリーアートの主導力がヨーロッパからアメリカへ移る頃に、ダダ運動タイプが急伸しました。ダダの反芸術は、大筋では米国文化で、アメリカンフィーリングなのです。20世紀グローバルのアメリカナイズと関係があって、興行収益重視もUSA流儀かも知れません。

――イメージ的には、どうしてもダダ運動タイプの方が、よりぶっ飛んだ気がしますが?

「既成の概念を超える」とは、しばしば作品単体の飛躍ではなく、論点ずらしを指します。実際の客は三大画家タイプに超越を感じても、ダダ運動タイプに超越は感じません。美術館のキューピー人形に、天才の底知れぬ深みや、人類の潜在能力への畏怖は感じないでしょう。感じるなら、従来なかったカジュアル感覚あたりかも。

――ダダ運動タイプは、見かけほどは飛躍していないわけですか?

ポピュラーアートの語が一番しっくりきます。反芸術はアイデアや素材が奇抜でも深遠は感じさせず、庶民的で大衆的なのです。逆に、ピカソなど三大画家タイプの奇抜な造形は、平凡な画材なのに高く遠い印象を与えます。俗っぽいキッチュの気配がなくて、どこか高潔で敷居まで高くて。

――三大画家タイプは、「芸術は高尚だ」のイメージから、今も出ていないのですね?

芸術をやめない限り出ないでしょう。『ゲルニカ』を精神病理で解釈する人がいます。一方、『古タイヤ積み上げ』を精神病理で解釈する人はまれ。ダダ運動タイプの破天荒は、狂気的才覚の戦慄よりも、むしろ世知辛さで語られ、凡の悪乗りにされがち。穴ねらいの処世術なぞにみられたり。

――三大画家タイプの美術家には、ダダ運動タイプが迷惑ではありませんか?

誤解を恐れて言うなら、大方には痛快かも。芸術知ったか御仁に差し向けた、意地悪クイズ的な機能が、ダダ運動タイプに見え隠れするからです。芸術性の抜けた作品に、すごい思想がある気がしてありがたがる今日の風潮を笑うかのような、まことに人が悪い作品群がダダ運動タイプです。落語の『ちりとてちん』に出てくる豆腐に似ています。

――二つのタイプ同士は、互いに商売がたきにならないのですか?

逆に連帯感があるでしょう。ともに現代美術として、古典に対抗する戦場が残るからです。特に日本の場合、政官財の財以外は古典具象一辺倒で、文科省の意向も抽象を論外とする現実があります。抽象美術に手を出した政治家は誰もおらず、公人は抽象に近づかない。国家的閉そくを前に、2つの現代美術は野党連合といった感じです。

――それでも二つが、市場で食い合う気がするのですが?

ダダ運動タイプが席巻し、三大画家タイプが封鎖された時代も確かにありました。砂利や家電ゴミが続々と展示室に持ち込まれた1980年代に、『ゲルニカ』型のキャンバス画を時代錯誤と批判する声が高まったのです。「絵の具なんて古くさい材料で、いつの時代のつもりなのかね?」などと。『ゲルニカ』は死んだ化石で、将来の美術は『古タイヤ積み上げ』型に移行し、今後のアートは全部これになると熱く語る現代ギャラリストが、80年代のそこかしこにいました。

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