| 現代美術とCGアートの謎と疑問に答えるQ&A もくじ | |
69 日本人はなぜゴッホが好きなのか |
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2011/10/27 |
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――日本でゴッホ展をやるたびに、なぜ記録的な大入りになるのですか? 国民の多くが、ゴッホを好きだからでしょう。そして、ゴッホを芸術家の代表と思っているからでしょう。 |
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――人々は、ゴッホのどこに魅力を感じているのですか? 私の推察では大きい順に、@具象の油彩画、A最極端な作風、B悲劇をともなう人生、C純朴な性格。この4つ。有名だからというのは、別の話でしょう。 |
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――ゴッホは具象だから大人気だというのは、案外見落としそうですね? 具象の範囲内で、最も抽象側に振れたのがゴッホです。例えば『ひまわり』に比べて、『糸杉』の何点かは限りなく抽象に近い・・・。具象だからわかる、でも抽象っぽいからわかりにくい。その兼ね合いが、ちょうど日本人のボーダーライン付近のバランスになったのではと。ゴッホの絵の難易度が、日本人のわかる上限に一致すると考えられます。 |
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―― 「上限」というのが、この場合のカギですか? わかりきった作品はたいくつだし、わからない作品はイラつく・・・、なのでわかる上限がフェイバリットになるでしょう。自分にとって、わかる範囲で一番難しいもの。ゴッホより難易度がアンダーなら敬意は下がるし、逆にオーバーすれば反発が増して、どっちもサイコーとは感じないでしょう。 |
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――ゴッホをオーバーしたら、何になるのですか? ピカソです。ゴッホよりわかりにくいその先は、具象ではなく抽象でしょう。抽象の中で最も具象っぽいのがピカソです。人物、静物、風景と、彼の絵はきれいに分かれます。そのピカソも日本で人気ですが、わからなくて嫌う否定派がドーンと増えます。つまり、最も難解な具象がゴッホで、最も平易な抽象がピカソ。二つの差は小さくても、無限に遠い。 |
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――ゴッホの絵を敬愛する理由に、彼の人物像への思いも強くあるようですが? 純朴な人物イメージは、かなり大きいでしょう。ゴッホは審査員や購入客に迎合せずに、信じる絵を続けて敗れました。その一途さが、日本的な人生美学に同調すると思います。 |
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――ゴッホの真っ直ぐなイメージは、どこからきているのですか? 絵の中に「見て見て、いい作品でしょ」というアテがない点がひとつ。「うまさ」がない。そして「手紙」に表れたように、計略のなさもあります。美術でよくある出世法は、大物画家の弟子になって、その紹介で業界に認めさせるコースです。徒弟制の人脈で業界に通じ、庶民を上から説得してもらうやり方。ゴッホはそうせず、印象派運動に加わるも、つまらない作品なので発言力は獲得できず・・・。自分の筆だけで勝負し、独りで能力主義的に世に問うたのです。 |
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――確かに絵を追求し、絵で敗れた感じですね? 「美術としてこれはなかろう」「おもしろくも何ともない」という絵を続け、客に対価を求めるには全く弱すぎて、ショボくて値がつかない。0フランでもいらない作品でした。今日、ゴッホから発せられるイメージは老練な匠のすさびとは逆で、むきだしの青春です。 |
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――ゴッホは途中で、一度も態度を変えていませんね? サラブレッドではなく、一貫して駄馬。いつも同じ調子です。明日を夢見るドサ回りを、ひたむきに走り続けて、最後に倒れる筋書き・・・。漫画の主人公でいえば矢吹丈あたり。 あり余る画才でゆうゆうと泳ぎ回って魅力を振りまいた巨人ではなく、ハイエンドの世界でいっぱいいっぱいでした。 |
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――ただ、今ではとっくに有名だから、寄らば大樹という面が絶対にありそうですが? それは話を出す私もそうです。避け難い勝ち馬乗りの中に何か実になる材料を探した時、例えば没後まだ大樹でない頃に日本人も肯定した事実があります。まず文学の武者小路実篤らが、1911年に白樺派という新興芸術同人の会誌でゴッホを紹介しました。2011年の今から100年前の明治44年、ゴッホの死後21年。まあ、当時海外ニュースで話題の扱いになっていたゴッホなので、微妙なところですが。 |
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――日本人は、ゴッホを買ったのも早かったのですか? 日本人の購入第一号は1919年(大正8年)とされ、ゴッホの死後29年です。今から92年前。太平洋戦争が始まるよりも22年も前のこと。 |
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――日本は、ゴッホ絵画とのつきあいが古いのですね? 日本人はゴッホを、「芸術家はかくあるもの」という原点にしているようです。 |
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――それは、理想の芸術家像という意味ですか? 目標というより、「こういうのが、いかにも芸術家だよね」というシンボルでしょう。ひるがえってみれば、現代アーティストは商戦システムに組み込まれ、よりビジネスライクになっています。動産の制作部として、欲しいコレクターに欲しい物をすかさず提供し、安定してお金を生むことが努め。 |
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――ゴッホは絵を誰からも欲しがられずに、お金も生まずに終わりましたね? ひと様の機嫌がとれない、快適度最悪のアンハッピーな絵で、コレクターの気分を害したゴッホは、例外1件を除いてアートビジネスに乗れずじまいです。「信頼できる仕事師」「できるやつ」という横顔が、ゴッホの人生には出てきません。抵抗を装った演出などではない本物ゆえに、客商売は成り立たず、アマチュア画家で終わったかっこうです。 |
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――要するに、売りものになりそうな絵をかかなかったわけですね? 作品が譲歩しない点と、アートビジネスが不発な点は、表裏一体だったでしょう。そして、石の意志ゆえに出世できないこの人物像こそが、日本人が求める芸術家像に合うわけです。その根底には、商人より武士を愛する伝統日本の庶民感覚もあると思います。つまり、サムライ・ゴッホ説。 |
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――ゴッホ本人の性格をみる限りは、日本人には苦手そうなタイプですが? 今もしゴッホふうの人物が国内にいたら、やはり好感は持たれないでしょう。流派の系譜をたどれない、いかがわしい経歴。紹介者もなし。素人目にも良くない作品だとわかる、感じの悪い画調。客と接点のない一途な信念は、柔軟性のない偏屈と受け取られて。誰とも違う愛想のない作風は、人並みの素養すらない「持っていない人」で終わり。あくまでも過去形の偉人伝をつてに、ゴッホは日本人の中に生きていると思います。日本国民はたぶん個性嫌いが多数派ですが、しかしゴッホは昔の西洋人なので距離はうまくとれています。 |
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――ゴッホがもっと長生きしていれば、どうなったでしょう? 白樺派が特集した1911年に、58歳のゴッホは武者小路らのカンパで来日し、本人の言葉は日本で記録されて。彼は和の風情が消えゆく大正モダニズムに心を傷め、帰国後に日本で見た事物を絵にかく。・・・とはならなかったでしょう。生きたうちは同じ調子だろうから。実際、一人の論者が生前に取りあげるも新展開はなく、フランス一国の中で肯定されることなく、ゴッホは無名のまま変死しました。 |
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――今の日本人は、芸術と商業に距離を置くわけですか? 仮説を出ませんが、「美術は個人が買うもんじゃない」という何となく日本にある気分は、余裕のない生活や閉塞気分や狭い家とは別に、芸術への割り切れなさもあるかと、私はこじつけました。ゴッホの真理とは、芸術と商業のかい離です。「人気度は芸術度と関係なし」「本物は売れない」。歴史に消える方から売れていく現実。この真理はアートビジネスでは全くじゃまなので、普通は皆で切り捨てます。しかし日本人は捨てずにいるとすれば・・・。「あれは昔のことだし、終わった話だから忘れましょう」とは精算しない日本人・・・ |
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――もしかして日本は、唯物的でなく唯心的なのですか? それはありそうです。例えば陶芸で、日本の窯で作られる陶磁器は、造形のおもしろさよりもまず、作者の人間の表れとして意識されます。形態操作へ向かう欧米と比べ、日本は精神性の反映をみる。それも結局は金額で測られますが、風土がらみの、作る精神への信仰は残っていそうです。 |
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――でもそれは、前近代的な古風な芸術主義と紙一重ですよね? ゴッホ称賛は、正反対へ向かう可能性もあります。白樺派の積極性は抽象のピカソには及ばず、具象のゴッホやヴラマンク止まりの和式洋画で終わりました。受け継いだ美術道は精神性へ傾斜して、元は科学的だった印象派が、精神的な印象派に化けたかたちです。政治家が好きな絵もだいたいこのゾーンという。21世紀の中国や韓国は現代抽象イケイケドンドンで輸出産業に押し上げたのに、日本では新しがりも商魂もないまま・・・。ゴッホへの入れ込みには、そこから進まなくなる停滞の危険もあったのです。 |
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――世界市場での、日本の消極性は深刻ですよね? 「価値はうつろいやすい」「くつがえる」の真理に対し、海外は「今が全てさ」とあっけらかん、日本人はそこまで割り切れない・・・。この割り切れなさが、最悪「歴史が傑作を決めてくれるのを待てばいい」という態度保留の傍観となって、結局は寄らば大樹に戻ってしまう恐れが。もう起きている可能性も。ゴッホ信仰は、前進と後退のどちらにも出ます。 |
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――ゴッホへの愛着が、諸刃の剣になるわけですか? 両方の現象の詳細はもうトレースできません。ところで、ヨーロッパ旅行でゴッホのお墓参りをするファンがいます。「売れっ子たちに負けたあなたは、結局勝って一人残った」と、霊前に報告しているのでしょう。ゴッホの生前に絵は1枚だけ売れましたが、購入者の墓を割り出して訪れた赤の他人、その第一号は日本の旅行者でした。日本人はあの逆転劇に今もひかれ、それは1992年に350年の封印から名誉回復したガリレオ・ガリレイへの感慨と共通するでしょう。 |
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――狂気が芸術を生んだという解釈を、絵で確認したい関心はどうなのですか? やはり多くの心の片隅にあるはずで、「B悲劇をともなう人生」に含まれるでしょう。ただし、わけがわからないから狂気ですと決めてしまう反応に、もう同調しないのかも。狂気説はしばしば、芸術がわからない側の自己愛を含むでしょう。今後も、作品をじかに見て「思ったより普通の絵だね」と実感する人は増えるでしょう。ゴッホが亡くなる4年前に電気自動車が、2年後にガソリン自動車が発明され、前後に電気関連の開発ラッシュで社会の空気が振動していた頃です。馬車や石油・ガス灯はおしまい。ゴッホを通して、時代の限界を思う・・・、この受け取り方が優勢になると思います。 |
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――ゴッホ的なものは、日本人の芸術観の基盤に宿ったのですね? 美術鑑賞の現場でよく出る話は、「自分が気に入ればそれでいいのさ」という割り切り方です。「美術は最後は好きか嫌いかでしょ」という白黒決着のススメ。これはしかし、ゴッホの時代の鑑賞法に戻しているだけです。その鑑賞法で、時代の限界があらわに出てしまったわけで。そんな時に日本人は、「でもこの作品は、芸術として本物なのかしら」とちょっぴり気にする。その立ち止まる陰に、ゴッホがいます。 |
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