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電子美術館のQ&A

70 画家の目は贋作を見破ることができるか

二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
2011/11/5

――美術の贋作(がんさく)は、見ればわかるものですか?

私も作品を見た時に、「これはニセモノだな」と感じることは、意外に多くあります。

――ということは、贋作を見破ることができるのですか?

この「ニセモノ」という語が問題で、私はよく非芸術のつもりで使います。美術らしさを目指して、攻めていない作品。上手で、きれいで、シャレているけれど、穏当にまとまってトラブルレス。許される範囲に収まろう、わかってもらおう、いいねと賛成票をいただこうという・・・。私にとっては真作の迫真性は後回しで、芸術の迫真性で作品を見分けます。

――そっちのリアリティーですか?

要は創造性です。「いい感じのステキな作品を作って、それのどこが芸術か。それはデザインでしょ?」というのが私の視点。具体的に重視する要素は、オリジナリティーを強化する魔力的なプレスと、生きたラインです。これらはアイデアとエスプリ以前の、純に芸術の根底部と考えます。しかし芸術的にニセだと感じても、だから贋作かは無関係で、私は真贋を目視では即断できません。

――「ニセ芸術だ、でも贋作のニセではない作品」というのは、ややこしい話ですね?

簡単なことです。こういう古い話がありました・・・。画商が、ある画家に相談したそうです。「先生がかいた絵がここに2枚あります。真贋を確認していただけますか?」と。

――存命中の画家が、自分の絵を鑑定したわけですか?

自身が作ったとされる絵を見た画家は、「こっちが真作で、あっちが贋作だ」と結論しました。「なぜそうだとわかりましたか?」とたずねられて、画家は「こっちは力強く、あっちは弱々しい」と答えます。

――やっぱり作った本人は、見破ってしまうのですね?

いいえ、だまされたのです。本人が真作と指摘した絵は、実際には他人が作った贋作で、贋作と見破った絵は過去に自分が作った真作だったのです。自分の絵を当てることができず、しかも結果的に力あふれる絵が贋作で、へなへなの絵が我が真作という、それが現実だった・・・

――そんなことが起きるのですか?

これはつまり、真作が芸術的に劣っていて、贋作が優っていたケースです。本人が筆が引けた弱々しい絵をかいたのに対し、知らない誰かが生き生きした力あふれる絵をかいたわけです。鑑定を頼まれた本人は筆の優劣まではわかったので、だめな方を贋作だと指摘したら、自筆の絵にダメ出ししたかたちになったわけです。

――まずい事態ですね?

がっかり絵画の方が、自分の手による真作だった。そして真作ゆえに、力みなぎる何者かの会心作より何百倍も高額という・・・。この能力と地位のあからさまな逆転は、業界全体の信頼性を考えれば、確かにまずい事態でしょう。

――真贋の判断は、芸術的な優劣を見て決めてはだめだということですか?

鑑定の見地ならそうですが、鑑賞では別の言い方をします。芸術的な優劣は、真贋を超えているということです。真贋の○×とは別に、芸術性の○×があって、2つを組み合わせた4パターンは、全てが起きるわけです。当然、真作イコール芸術とはならない・・・

――そういう事件というか逆転現象は、多くあるのですか?

優れモノが贋作で、劣りモノが真作であるこうしたケースは、芸術性と名作が相関しない現実が多々あるにしても、しょっちゅうは起きないでしょう。時々起きてしまう理屈は難しくありません。例えばゴッホの『ひまわり』を、中年のピカソが模写したとします。ピカソは他人の引用と改良の達人で、しかもより確信的に絵画を破壊するので、破壊が中途半端ぎみのゴッホに比べ、火を噴くような激しい『ひまわり』ができ上がるはず。ゴッホの上を行く『ひまわり』が。

――でもその『ひまわり』は、もちろん贋作ですよね?

この場合は名のあるピカソが作ったから、「ピカソによるゴッホ風ひまわり」として、ひとまず高値がつくでしょう。ところが正体不明のミスターXが、火を噴く『ひまわり』を描いてゴッホの上を行った時、その贋作を芸術としてどう位置づけるか、これが問題の中心部なのです。

――本物を超えたニセモノが、美術ではあり得るわけですね?

こうした逆転は、ゴッホの贋作では確率的に起きにくかっただけです。ゴッホは最後の2年間に、ヤキが回ったような極限的な絵をかきました。贋作者は別にヤキが回っていないから、ゴッホよりも生気が不足し、画調が顔負けしやすい理屈です。誰かがゴッホの晩年の絵を模してでっちあげても、勢いが引いたショボくれた絵にとどまりやすく、見破られやすい。筆の勢いと生きた線は、写し取りにくいからです。

――ならば、筆の勢いがなかったり線が死んだ絵は、贋作がやりやすいわけですか?

ユトリロ(1883〜1955)がそれに近いようです。クセが小さく穏和な画風なので、絵心のある画家なら似た感じに作りやすく、模写するハードルが低い。だから確率的に見破られにくいわけで。結果的に、ユトリロの絵は贋作の方がはるかに多く出回っています。大半のユトリロ作品は贋作で、しかも増加中。画風が平坦でアクが少ないユトリロは、贋作者のえじきになっています。

――すると別人がかいた模写を、大勢の客がありがたがって拝んでいるわけですか?

そうなっています。私もやられているでしょう。贋作は想像するより多く出回り、美術館の目玉として定着して、長年客に感銘を与えていたりもします。世界中で、贋作の嫌疑がかかった名画は、倉庫入りもあれば展示したままもあります。

――普通は、どうやって贋作だとわかるのですか?

真作とわかっている作品と比べます。複数の真作と並べて置けば、「これ、何だか感じが違うよ」と見当がつくことがあります。もちろん、絵の裏の点検などもやるわけですが。

――日本にあるゴッホの『ひまわり』が、贋作だとささやかれていますね?

ゴッホの『ひまわり』をゴッホが模写した『ひまわり』があるから、話はややこしいかも知れません。真作説の根拠は、ゴッホの他作品と同質のキャンバス布と鑑定されたからだそうです。それに対し贋作説の根拠は、「ゴッホの手紙」にある『ひまわり』に関する記述と話が合わない点でした。話題から抜けていて、絵の制作タイミングが不自然だという。作風やサイズも変だとして、複数から贋作説が出たそうです。よくある周辺事情として、オークションに現れる前の所有者がたどれない空白の来歴も疑惑になる場合があります。

――作品を直接見なくても、贋作の見当はつくのですか?

むしろ作品一個の表面をけんめいに見て、雄弁な腕を持つ贋作者の技量に説得されてしまう危険もあります。そうして外したのが、さっきの2枚の鑑定を間違ったケースでした。しかしそれとは別に、本人が贋作ふうの真作を作ることも、現実にはあり得ます。

――それはどういうことですか?

「他人が見たら贋作と思うかも」という作品を作ってしまう時が、画家にはあるのです。趣向を変えて奇妙に転んでいくなどして、連作の中で浮いてしまい、「何だか自分の筆に見えないなあ」という突然変異的な、しかもイマイチのシロモノができることがあります。

――そういう画家は、作風が安定していないわけですね?

芸術は職人芸とは違います。だから安定しないのが正常です。前作と傾向を変えたり、着想も変えて何かを前進させる変化を仕掛け続けるから、芸術作品は常に不安定です。例えばきれいにキマる配色をいつも避けて、未知数の配色ばかりだとか。自分から変なものを作ろうと心がけているから、「なんじゃコリャ」のビミョーな作品と背中合わせです。

――出来損ないだからと、さっさと捨てないのですか?

おかしな作品ができたとしても、すぐには捨てません。自分に起きた異変を急いで取り消せば、今の自分がついていけない「可能性」の火も消えるからです。堅実に積み上げて確実に遂行する職人の世界とは、そこは違います。

――ゴッホの贋作でも、本人の筆がスベった駄作につけられた冤罪があるのかも知れませんね?

それを天国のゴッホが見て、「一目でフェイクだとわかるよ」と、自分が昔かいたことを忘れて、ダメ出しする可能性もあります。その手で疑惑になったひとつが、『芦屋のひまわり』という絵です。造形が突飛かつ秀逸で、線は死にぎみの変則的な作品です。ゴッホ絵画への似せ方が足りないこの20世紀ふう贋作丸出しの絵を、しかし19世紀に本人がかいていた可能性は残るでしょう。(編集注:『芦屋のひまわり』は二次大戦の米軍空襲で焼失し、白黒写真の着彩が残存)。

――贋作をめぐるゴタゴタの中で、鑑賞する側は美術にどう接すればいいのですか?

繰り返しになるのですが、真贋の○×と、芸術性の○×と、好悪の○×は、各々別です。3つによる8パターンは全て起き、どれかの○によって他が○になる法則はありません。疑惑の名作が真作と証明されても、芸術性は疑問符かも知れないし、嫌いな作品に限って芸術に値する内容だったりもよくあります。美術はそういうものだと心すれば、鑑賞の引き出しは増えてゴタゴタも楽しめるでしょう。

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