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電子美術館のQ&A

71 夢路いとし・喜味こいしの漫才と芸術

二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
2011/11/16

――それにしても、いとし・こいしの漫才はおもしろすぎますねえ?

中学か高校の頃に勉強中、離れたラジオから漫才が聞こえてきました。後で考えればNHK放送『上方演芸会』らしく、勉強は打ち切り。耳を奪われ笑いが止まらず。「アハハハハハ・・・」。その後、いとし・こいしだったと知りました。

――漫才の会場でも、笑い転げている客がいますが?

終盤に客席の椅子で倒れている客がいます。笑いが止まらず、腹痛や酸欠で演技を見続けるのが困難で、天井を向いているみたい。舞台の映像でも、何度見ても笑えるカ所があります。

――あそこまでの笑いは、どうやって生まれるのですか?

過不足のない完成度だと思います。いとし・こいしの漫才は何かひとつ特筆に値するのではなく、全体的に行き届いています。いくつかは、作家の案を元に細部をいとしがつくり、こいしが推敲、それを舞台ごとに改良する方法です。現実離れした強引な、あるいは貧乏くさい話はありません。料理店の特別サービス日に、ああだこうだで料理が出てこずに憤慨する・・・的な、わびしくすさんだ演目はないようで。

――ストーリーに無駄がないですよね?

他の漫才グループと比べ、早口の駆け足にならず、詰め込まず、スローペースながら冗長を排したのも特徴です。余計な一言を入れません。

――大勢の客がどっと笑えるのは、なぜなのですか?

前の笑いの残りが次の笑いに足され、中盤から終盤にかけて笑う気持ちが積み上がるように、オチの配分が計算されています。笑いのガスを抜かない。雪だるま式に盛り上がる感じが、ちょうど交響曲の構成にも似て。

――決めゼリフは、特になかったようですが?

一発ギャグがないから、トレードマーク型ではなく、オールラウンド型です。時には奇声をあげても、流れの中のサプライズであって、無理やりな感じはありません。

――そういえば、2人は即興のアドリブ発言もあまりありませんが?

トークのおもしろさより、文学的なおもしろさに比重が置かれます。言い方を「あの時は怖かったよ」にするか、「怖かったよあの時は」にするか、違いを大事にしているようで。言い間違いや聞き損ねが起きにくい言葉に、少しずつ修整しているのだろうと推測します。

――アドリブ発言がない漫才は、むしろ活気が下がりませんか?

声色変化や身振りで現実感を加えています。機械的なしゃべりにならないようにと。また漫才の致命的な失敗として、大事な一言をしゃべる時に自身が笑い出すことがあります。いとし・こいしは自らが苦笑する演出をさりげなく混ぜて、そうした破裂を防いでいるようです。

――ひとつひとつのしゃべりが、聞き取りやすい印象がありますが?

例えば、前フリは2度言う、オチは2度言わないなど、かっちりしています。オチで客が笑っている最中に、同じオチを重ねて言い直すと、客は耳を貸して笑いが中断されて白けます。わかっていても多くの漫才師は、だめ押し目的にやってしまいますが。

――いとし・こいしは、自分たちのルールを色々と決めているそうですが?

「おまえ、俺」を使わず「君、僕」と言うなど、約束ごとがあります。そして大事な点ですが、上方(関西)漫才にひんぱんに出てくる「アホ」「しょうもない」のツッコミも、ないか、申し訳程度。この点は、他の漫才とかけ離れた特徴です。

――「アホ」「しょうもない」などの言葉は、漫才の盛り上げに必要不可欠ではありませんか?

私はそのツッコミは、漫才を殺す一番悪い手だと思います。口汚なさが理由ではありません。「アホか」とか「しょうもないこと言うて」は、本来は客の側が持つ思いに相当するからです。どれだけアホを言えるかが勝負で、そのアホらしさに客が笑うのだから、演技者同士がアホ呼ばわりを始めたら、何をか言わんやです。

――そう言われてみれば・・・、そうなのです・・・かね?

アホを言う相方を、「アホなことばかり言いよって」と攻撃したらどうなるか。ボケで笑わせて、ツッコミで中和させてチャラに戻している・・・、この常道のやり方に私は反対です。ボケで笑わせて、ツッコミで爆笑させるために、アホらしさを強める一言で追い打ちをかけるべき。なのに、コンビの2人が打ち消し合って、笑いが中途半端な漫才が多いのです。

―― 「アホ」「しょうもない」を言わない方がいいのですか?

バカ発言に対して「バカすぎてあきれますわ」と言い返す対話だと、事態をありのまま説明しているだけで、客の気持ちはその不和ムードで曇ります。いとし・こいしは、ここが曇らずに晴れるように仕組み、笑いを止めなかったわけです。

――確かに多くの漫才は、片方が言った意味内容を、相方が解説していますよね?

ふざけた一言に「何ふざけてんだ」と返して、とんちんかんな論法に「わけわかんないこと言いやがって」と怒って、まぬけな行動に「まぬけなやっちゃ」となじって、客席に向かって「ねえ、皆さん、この人バカでしょ」と声をかけるのは、方法論的に間違っています。ひとつの業界の主流、多数派が、根本的な間違いを定着させている図がここにも・・・

――美術にも、そんな集団勘違いがあるのですか?

バカ話をしてバカだバカだと馬鹿にする漫才を聴くと、美しい花や美女をかいて、美しい美しいとたたえる絵画と重なってくる気がします。どちらもウィットもエスプリもなく、そこに起きている事態を伝えているだけ。創造ではなく報告です。

――ひねりが足りないと言っていいのですか?

「ひねり」というと、「ひねくれ」「ねじくれ」「気むずかし」のイメージに結びつける人が多いから、意味がそれます。

――それなら、漫才をどう改善すればいいのですか?

漫才は、賢明に毅然とバカ話をやらないといけないのです。バカ話を「俺たちバカやってます」とそのまんま表現したら、興趣が出ません。美術も同じで、美しいモチーフを「美しくやってます」とそのまんま表現したら、興趣が出ません。どちらも全くダメとまではいえないし、経済活動には十分でしょう。でも大事なものが抜けています。大事なものとは、表現に潜む食い違いの断層です。

――「ひねり」よりは、「ずれ」みたいなものですか?

バカ話をバカバカしそうにやっても、ロジックのギャップが生じないから、笑いはそこそこにとどまり、ドカンと突き抜けません。ファンの温情を頼ることになるでしょう。

――「漫才は全部つまらん」と辛口の声が方々から聞こえるのは、それが理由ですか?

たぶん漫才にも方法論が必要です。「ゴチャゴチャ考えず、とにかくおもろけりゃ勝ちだ」とばかりに努力しても、知らぬ間に空気に染まって皆似てきます。いとし・こいしが別格になった原因は、「みんな間違っている」「漫才は本来こうだ」との世直し意識をどこかに持っているからだと考えます。

――いとし・こいしの漫才は、芸術といえるのですか?

その答には詰まります。コンビが現役だった時にこいしが振り返って語ったのは、「僕らは冒険をしなかった」でした。今日の芸術の本質が冒険なのはわかっています。しかし、ならば漫才は何をすれば前進なのか考えれば、必要なのは漫才の概念をくつがえす発明ではなく、他と違う色なのかも。

――現代美術でも、概念をくつがえすことが目的の作品は多いようですが?

売れなきゃ存続できない演芸と、否定的に存在する芸術。漫才と美術は価値が逆方向です。しかしどちらも、「既成の概念」なる敵の実体をよく確認する必要があるでしょう。今の欧米系美術では正しい概念がクールベあたりに置かれているから、私はシュメールまでさかのぼろうと言ってきたわけです。まあ美術はいいとして、今のコンテンポラリー漫才は侮辱主体の舌戦のスタイルに皆が集まって、ダンゴ状態にみえます。新風たちもそこは右にならえで、個の色はほとんど声の違いで、類型的に同じという。

――「Think Different」のIT企業Apple社の標語も、その手の際どさに踏み込んでいましたね?

「違うことを考える」という、その違わせ方が機微ですが、そこには「みんながとる手は、間違いが多い手であろう」という読みがあります。常道の多数派は、同じ原点外れで横つながりしているとの経験則。いとし・こいしは今日的な既成の概念は壊し、原点的な既成の概念は温存。原点を壊す冒険はやらない。あたかも2人でやる落語のような丹念さで、原点にして模倣されにくい芸が記録されています。

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