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電子美術館のQ&A

72 ゴッホの絵はなぜ認められなかったのか

二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
2011/11/23

――こうした昔ながらの質問が、ネットにもありますね?

その回答には、人の生き方や人生観が出るでしょう。

――絶対に外さず、間違いなく確実にいえる、完全な答は何でしょうか?

それは簡単で、人々が芸術をわかっていないからです。わかっていればゴッホは拾えた。わかっていないから拾えなかった。道理はシンプルです。

――その答に、普通の人は反感を持ちませんか?

私だっていい感じはしません。人間の痛いところを突かれた感じで。「戦争は人類が愚かだから起きる」的な、ドンピシャですから。人々は昔判断を誤っては、年月を経て正解がわかって差し戻し、その時新たに別のリアルタイム判断を誤って、将来気づいて差し戻す日までおあずけ・・・。このやり直しの積み重ねが美術史です。順調に進展しているようでも、入れ替わりドラマのアーカイブといえます。

――おあずけ解除の日までは、別の作品が王者になっていたわけですよね?

ゴッホとは別の画家が、当時もてはやされたわけです。今は消えていて。そのあだ花に賞賛を送る人々は、捨てられていたダメ美術家の復活に合わせ、賞賛の対象を取り替えていく・・・。その取り替えは主に世代交代で起きます。先人の選択を、新世代が否定する、これを続けていきます。

――今の自分たちがあだ花にほほ寄せている自覚なんて、誰も持たないですよね?

それが質問への的確な答になるわけです。ご先祖様が失敗した状況を冷静に見返せる時が来るまでは、間違った選択をしていた事実は発覚しないし、摂理もこれといってみえないわけです。原子力発電の逆転劇にも似ているかも・・・

――この手の質問に対して、そんなふうな回答はさすがに集まってきませんけれど?

質問への回答でまずいのは、「時代の先を行くゴッホに、当時の人がついていけなかったから・・・」というものです。

――その回答は、何がどう間違っているのですか?

間違ってはいません。しかしその答だけでは、話を他人ごとに持っていきすぎて無意味なのです。当時の人はゴッホをつまらないと感じました。ゴッホについていけない自覚はなかったのです。ここが大事なところ。

――私たちは、ゴッホは当時ボロカスの非難ごうごうを受けたと思いがちですよね?

「これ難しいわ」「先進すぎてわからん」「俺たちの理解を超えているぜ」「何が何だか」「ああ驚いた」などと感じた人はいません。当時の人が超越を感じなかった作品を指して、超越しているがゆえに認められなかったと結論しても無意味です。その解釈では、私たちは何も学習できません。

――それなら当時の人々は、ゴッホをどう感じていたのですか?

「ショボいね」「へたなだけ」「デッサンがお粗末」「全然かけていない」「美術になっていないだろ」「プロならありえない」「いや素人にも劣る」「何を主張したいの?」「やる気あるのかいな?」「これで画家のつもりかよ?」「誰が見ても0点さ」「客に対価を求められませんな」「買うやつがいたら笑うわ」「ただの絵の具の無駄づかいね」「アホくさ」「相手にしなさんな」「プププ・・・」。

――当時の人はゴッホの絵にぶっ飛んで、嫌いになったわけではないのですね?

「すごすぎる」なんて誰も思いません。絵に戸惑ったり、困惑などもなし。一目見てレベルが低くて、間違った絵だからパスしたまで。冷たい黙殺。そして別にいくらもある、レベルの高い正しい絵に心ひかれ、そちらに感動して賞賛して買い、美術館に収めただけの話です。そういう判断は、2011年の私たちだってやっています。同じ基準で・・・。私たちが今やっていることを、125年前の人もやっていたまでの話です。

――例えばですね、当時の人がチェックしなかった項目は何ですか?

「美術として間違っている気がする」「基本がなっていない気がする」「許せない気がする」「嫌な感じがする」「現に自分は嫌だね」「採点するなら0点か」。これらの○の多さに従えば、ゴッホの芸術は拾われました。チェック項目は実は同じで、採点が皆さんあべこべです。このチェックを誰もやらないから、拾われませんでした。実に簡単な話なのです。

――なぜ、当時の人はそれらを正しくチェックしなかったのですか?

芸術をわかっていなかったからでしょう。わかっていれば、必ずチェックしています。チェックする人のことを、「わかっている人」と呼ぶのです。

――そうすると、ゴッホが亡くなった後で、誰かがチェックしたわけですか?

そういうことになります。きっかけは銃弾です。小さな町で画家が銃撃で死亡し、半年後に被害者の弟も後追いで死亡、そこはアガサ・クリスティーの世界になったはず。それをきっかけに絵を見直した時、キャンバスに「アナザーワールド」を発見する人が現れました。「この絵は他とずいぶん違うぞ」「一人浮いてる」「こんなやつおらへん」。こうしてゴッホもまた、大衆向けスキャンダルから新スタートを切ったのです。

――ゴッホは人間の壁にはばまれて、災難でしたね?

一人だけの受難ではありません。同じ後期印象派に分類されるセザンヌとゴーギャンも、似た境遇でした。近い年代のアンリ・ルソーなども、長く認められていません。ルソーは本職が別にあるから食えたわけで。食えないセザンヌは親の遺産で生き延び、何もないゴーギャンは植民地タヒチにのがれた負け組。印象派でそこそこいけたのは、美少女が当たったルノワールあたりで、他はおおむね今と逆の不遇です。ゴッホに限らず、新興グループはどいつもこいつもクソ絵画、クソ画家の面々だったのです。言い換えれば、人々は「これこそ本物の芸術だ」を外しまくっているわけ。

――ということは、最初の質問からして・・・前提がどうなんでしょうね?

冒頭の質問に、最初から勘違いが含まれている可能性はあるかも知れません。その勘違いは2つ。「ゴッホのみ例外で、他は売れ線が巨匠に持ち上がったのだろう」という勘違い。もうひとつは、「今の私たちなら、芸術が出てきたら、すかさず認めるだろう」という勘違い。

――それなら、ゴッホがだめだった理由を細かく分析しても意味がありませんね?

「ゴッホはなぜ認められなかったか?」ではなく、「人々はなぜ認めなかったか?」が正しい着眼です。最初からゴッホの問題ではなく、見る側のこっちの問題ですから。ゴッホは、セザンヌやゴーギャンも含めた芸術の代名詞。「僕たちが芸術がわからない理由は何ですか?」とか、「人はなぜ芸術が苦手なのですか?」と建設的な問い方をしないと、人ごとで終わります。現に、美術関係の誰もゴッホ事件の始末書を書きません。「遺憾な結果を反省し、今後はちゃんと芸術を拾うよう気をつけます」と誓わず、穴は125年放置されたまま。

――それなら、なぜ人類は芸術がわからず、苦手なのですか?

私が考えているのは、文明と文化が反比例する仮説です。文明が上がれば、文化は下がる・・・。文明の高度化によって、文化力がやせ衰え弱体化する関係です。

――具体的に、何がどう衰えていくのですか?

ひとつの表れは、「きれい好き」への傾斜でしょう。影のない明るく陽気で、のっぺりと平坦で刺激のない、ひかえめなものがフィーリングに合うように、人間の嗜好が変化していくとの推測です。のっぺりすっきりのキャンディーポップ画がアートの顔役へ近づく現象が、これに該当するかも。

――人類がきれい好きに向かおうとする、何かわかりやすい世間の事例はありませんか?

例えば食文化の分野ですが、先進国に精肉業批判というのがあるそうです。肉の製造を問題視する思想。動機は、むごたらしい殺りくをストップさせるヒューマニズムです。これは大筋では、潔癖性の一環にみえます。なぜなら、野菜サラダだって生き物を殺りくして盛り合わせた点でいっしょなのに、そっちは気にならないという。この情緒的で不合理な片寄りも、きれい好きへの傾斜で説明できるでしょう。

――だいぶ前に話題に出た、暗い絵が御法度なギャラリーの件が思い出されますね?

1980年代はそうでした。黒基調や、影差す作品を禁止したアートギャラリーがあちこちにみられました。当時、芸術を避ける現場を目の当たりにした私は、芸術性の低い方に好感をいだく心理の根は文明の進歩だと感じたものです。80年代といえば、お尻の洗浄トイレがテレビコマーシャルで本格販売され、いっせいに暮らしの中の清潔感が見直された時代です。抗菌防臭時代の始まり。朝シャンも同じ頃。21世紀の清潔主義の基盤は、1980年代に確立されています。

――人類の文化は、無味無臭に向かうしかありませんか?

「そうはさせん」という動きが現れます。文化をきれいごとへ萎縮させる全体的な流れの途中に、巻き返しのクーデターが起きます。銃弾がきっかけとはいえ、20世紀にゴッホが見直されたのも先例でしょう。直接的な原因は、カメラによる写実終焉と抽象の再発見ですが、同時に人間のダークサイドをテーマにした美術が前面に出ました。汚い美術、気色悪い美術が主導します。初期ダダもそう。シュールレアリスムもそう。アクションペインティングも。この時、グリューネヴァルトなど、西欧北方の毒々しい画も見直されます。

――ゴッホの絵は生肉だ、という比喩を思い出しますが?

きれいごと文化を返上するクーデターを、無理に食品でこじつけるなら、例えば近年の「食育運動」がそうかも。食育の主題は子どもたちの健康だから、一応は衛生向上も上位に来ますが、その目玉イベントとして食肉工場見学がいくつかの小学校で実施されています。冷凍庫に吊された牛のブロック肉も見て回るコース。「見ぬこと清し」のヒューマニズムを捨て、子どもが大好きなハンバーグのネタばらしで、人が生きる矛盾を認識させる原点戻りといえます。

――そうした本質論は支持が根強くても、全体では相変わらずマイナーですね?

同根ゆえ、芸術と構造がよく似ています。昔コラムで読みました。「ほとんどの画家が亡くなると、価格が大きく下がるのが普通だと聞いて、何と残酷かと思いました・・・」としみじみ語るコラムを。私にいわせれば、非創造ゆえ排撃を受けない当代限りのあだ花が、永遠の本物を押しのけて一世を風びし、ヒーローインタビューで祝福されたのだから、幸運の女神に感謝しこそすれ、どうして悲運を嘆く必要があろうかと。

――嘆いた文学作家が、人気画家と知人だったのかも知れませんが?

友情も大事でしょうが、没後でなきゃ本物を判別できない人類の運命も、しみじみ思うべきと私は感じました。

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