現代美術とCGアートの謎と疑問に答えるQ&A もくじ
電子美術館のQ&A

75 芸術の反対語とマルセル・デュシャン

二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
2011/12/31

――ひとつの語の反対語は、いくつもあったりしますね?

数学のロジックには、正に対する逆があって、裏があって、対偶があります。科学では、正に対する反も。

――芸術の反対語というのは、あまり使わない気がしますが?

「芸術対デザイン」がまずあります。似て非なる二つ、それらの表現内容の深さに着目するもので、芸術は内容が深く、デザインは浅い。浅め。芸術は否定的存在がありえても、デザインは肯定どまり。デザイン画を作る時に、苦悩や怨念は盛り込まないわけで・・・

――デザインには、鋭いトゲがない印象がありますが?

デザインにも奇抜や意味深長なものはありますが、大筋では嫌なことを忘れさせる方向です。後に残らず、人を悩ませない。不快でなく、機嫌も損ねず。芸術は逆です。芸術はアンハッピーもどん底も含んで、人を圧迫します。ねじれています。毒が毒々しい。芸術は感じ悪いのが普通。『モナリザ』だって実はそうで。よく見れば、しっかり不気味。「謎の微笑」もペコちゃんのようなニッコリの笑顔ではないし。お菓子の外箱に『モナリザ』は使いにくい。

――でも職業デザイナーなら、デザインも芸術の一種だと反論しそうですけど?

グラフィックデザインやプロダクトデザインなどジャンルの意味でなく、内容やテイストの方向性です。ということは、油絵の具象画にも、芸術方向とデザイン方向があるわけです。

――デザイン以外に、他に反対語はありますか?

似た言い方に「芸術対ポップ」があります。アーティスティック対ポピュラー。この違いはわかりやすいでしょう。ビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーの曲づくりを誇張すると、だいたいこの違いのイメージです。絵で、例えばコップなど小物類に転写するプリント柄を考案する時、企画側から「ポップな図案にしてくれ」の指示がよく出されます。

――そうなんですか?

雑貨類やノベルティーグッズの表面につける図案は、ポップ仕立てが常道で、暗黙の必須といえます。例えば、Tシャツやエコバッグのプリント柄も、ポップが基本だとデザイナー側も心得ていて。

――ポップな図案の方が、よく売れるからでしょうね?

企画側の言外には、「芸術的な絵はやめてね」があるわけです。商戦の中に混じった芸術は、考え込ませて消費者心理を乱します。購入意欲はクールダウンし、販売促進にブレーキがかかって。「芸術とポップは正反対だ」と、売る側は周知徹底しています。「ゴッホ的な抵抗はだめ」「ピカソ的な破壊はだめ」と、これはわかりやすい話です。

――そのあたりは、何となく見当がつきますね?

新しく作るたびに少しずつポップに変化していった一例は、仏像です。飛鳥時代のごってりした仏像が今は作られないのは、人の彫刻の腕が落ちたのではなく、感覚に合わないからです。新しい寺に置く仏像は、ノーブルよりも何だかポップな顔つきです。私たちは重く押してくる芸術調に感性が釣り合わなくなって、軽くサラリと流れるポップ調へ趣味が移りゆく最中です。テレビアニメだって、リメイク版はオリジナル版より必ずポップ寄りでしょう。リメイク版を、逆にアーティスティックに変えて作った例は少ないわけで。

――芸術の反対語は、まだありますか?

「芸術対芸」というのが昔はありました。芸とは、伝統芸能や芸道などレトロ型ショービジネスです。芸術と違うのは約束ごとへの忠誠で、流派が厳格で、規律やタブーは絶対で、芸風をホイホイ破ったりしません。改革して限界を越えたり、新しい世界に変えない受け継ぎが芸の道で、芸術はその逆。

――でも、歌舞伎や狂言は、伝統芸能でしかも芸術の範疇だとされていますが?

まあこれもデザインの場合と同じで、ジャンル単位の区分ではなく方向性です。伝統芸能にも、おきて破りの反逆的な演目はあって、全部が割り切れはしません。

――ここまでをみると、芸術の反対語はどれもこれも商業がらみですね?

そこで、「芸術対商品」です。イメージを決定づけたのが、近代画家ゴッホでした。ところがピカソは、晩年に商品らしさに反しても反しても売れまくったから、一時は美術を商業主義に変えた戦犯にされたぐらいです。そのピカソもデビュー後は売れずにいて、赤貧を極めたことはご存じのとおり。

――芸術と商業は、なぜ対立するのですか?

芸術は創造だからです。創造は前例や類例がないから、顔なじみなわけはありません。見かけない新顔です。「ああこれか」とか「最近よく聞くわ」は起きず、「何これ?」「知らネ」となるのは必至。偉い人も誰も知らないし、辞書にもない。すでに知られていたり、辞書にあれば創造じゃないわけで。創造は認可の域外にあって、他人顔をしているに決まっています。要するに創造は、必ずわけわかんない作品。大勢に「違うなあ」と感じさせるのが創造。

――創造物を売ること自体が、根本的に矛盾なんですね?

コマーシャリズムに必要なのは、客とのつながりです。コマーシャルとは、客と縁故関係をつくる作業であって、その近道は商品自体を縁故ある仕様に作ることです。この行動は、創造の逆を行くものです。私たちは物に今の人とつながりがあるかないか、親近性はだいたい読めるから、売れる美術は比較的容易に予測できます。ところが創造物はつながりを断って立つわけだから、商業とは反りが合いません。芸術が売れないのは、創造だからです。

――ゴッホが、まさにそれだったわけですね?

ゴッホもまた、皆がやらないことをやって、皆がやることをやりませんでした。やるやらないが他人とあべこべ。まんじゅうの品評会に、ゲタを放り込んだようなもの。だから誰とも接点がなく、誰も絵を相手にしなかったわけです。身内さえも。

――でもゴッホが亡くなれば、すぐ売れ出したそうですが?

まあ、それはウソというか、不正確な情報です。ゴッホ没後に絵を安く買い取った人がいて、その人は筆を手にして絵に塗り足したり、かき変えています。今私たちが美術館で見るゴッホの絵の一部には、他人の手も入っているわけで。重要文化財に指定する前に、落書きされていました。没後も、いかに情けない駄作に見えたかの証明でしょう。

――ゴッホの最初の回顧展はいつ頃なのですが?

未来の目を持つ画商ヴォラールが、ゴッホ没5年の1895年に展示会を開きましたが、ブレイクせずにクソ画家のままでした。ヴォラールもゴッホの不遇をかぶったのです。

――亡くなったとたんに売れた事実は、なかったのですか?

ゴッホが淘汰に勝つ決め手は、没後24年以上たって弟テオの妻が出版した『書簡集(手紙)』です。テオの死後、再婚して、再度死別した妻は、とっておいたゴッホ直筆の便せんの日付特定を続けていました。抽象の時代が来て、「めっちゃ変わった画家がいる」と注目が始まったゴッホは、活字作家デビューして歴史審判に勝訴しました。ゴッホもまた、絵の単独の力では出世に火がつかず、最後の最後に文芸の訴求力を借りたのです。

――本物の芸術絵画は、とことん嫌われるのですね?

そこで、論点ずらしのアートが出てきたのです。順序はこう。他人に似ない、時流と離れた異端の作品で個性を出せば、芸術の殿堂入りは固いはず。そう思いきや、逆に否定され相手にされない事態が発生。ゴッホ現象のリピート。この倒錯に憤慨したのが、フランスのマルセル・デュシャン(1887〜1968)でした。デュシャンが変わった絵を作って展示会に出すと、その絵の変わっている点が非難を受けたのです。

――心の座った画家なら、いつものことだと苦笑いで受け流しませんか?

「非難の相手が違うでしょ」「変わった作品が芸術のはずでしょ」「過去の名画もそうでしょ」「みんな、どうかしている」とふてくされたデュシャンは、誰でも自由参加できる展示会に男性用小便器を持ち込み、相手を釣ろうとします。案の定、主催者が客に見えないよう便器を隠したことを確認し、彼は他人を装って主催者に抗議文を送ります。

――便器アートで、そういうことがあったのですか?

マルセル・デュシャンという男、ドラキュラ俳優のクリストファー・リーに顔が似て、クールでダンディーなイメージで通っていますが、実際は熱い。正しい意味どおりに、道理に沿って創造をやったら、なぜか叩かれた・・・。デュシャンが早くに絵をやめて立体オブジェに移ったのも、これが原因だったそうで。後の作品は復讐心にあふれ、数も少ししかない・・・。結局、主催者は便器をひそかに捨てて証拠隠滅しました。

――重要な歴史作品は、どれもずいぶん不遇なのですね?

前に、三大画家タイプとダダ運動タイプの話題で、後発の美術家がキューピー人形を使って出世する話を出しました。しかし、すでにできている流れを受け継ぐ後発は楽でも、先発は人類に覚えのない創造なのだから、皆ひどい扱いでした。ゴッホだけの話ではなくて・・・

――それにしても、ダダ運動ってのも深いんですね?

「芸術対反芸術」を演じた作品自体に、中味はありません。メッセージは便器を見て感じる3Kではなく、絵画をめぐる不当な扱いの告発でした。ありがちな絵や彫刻など、創造のかけらもない追従や亜流の方が、新規の創造をさしおいて冠をつける底の浅い現状。それを表現する遠回しな材料として、便宜的に便器が使われたまでです。 便器を既成の枠にとらわれない新しい美と受け取るのは、後世の曲解です。

――ゴッホ以降も、画壇は相変わらず同じ調子だったわけですか?

「美術らしく作りました」なら○がつき、「美術を超えました」だと×がつく。きちんとした凡が上で、非凡は下。芸術でない方が芸術に君臨して、芸術の方が芸術から除外される・・・。この倒錯への反発がダダにはあったのです。黙殺にこりずに個性を作り続けて千日手に入り、あげくに神経をやられて人生を棒に振ったのがゴッホ。ゴッホ式の直球勝負をやめて、論点をずらして、ゴミを拾ってぶつけたのがダダでした。

――世間で言われる芸術の語に、最初から創造の概念がないことがよくわかりますね?

違った発想に否定反射が起きるのはどこの人も同じで、この点で日本は無駄に自信を失う必要はないのです。まあ無理せず、及ぶ範囲で美術を楽しく遊びましょう、というのが私の主題です。でも、見る人が自らわかる範囲を広げるのも、創造参加のアクションでしょう。年々、個人のわかる範囲が大きくなるよう願っています。

現代美術とCGアートの疑問と謎 もくじへ 現代美術とCGアートの謎と疑問に答えるQ&A もくじ
電子美術館へ戻る 電子美術館へ戻る
Copyright(C)2005 21SEIKI KOKUSAI CHIHO TOSHI BIJUTSU BUNKA SOZO IKUSEI KASSEIKA KENKYUKAI. All Rights Reserved.