| 現代美術とCGアートの謎と疑問に答えるQ&A もくじ | |
76 絵をへたにかく意味はどこにあるのか |
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2012/1/10 |
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――ゴッホやピカソを指して、「あんなへたな絵なら僕でもかけるよ」という主張がありますが? やってみれば、意外にかけないのですが・・・ |
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――へたくそでいいなら、ただ単に、でたらめにかいて済みませんか? 「自分なら、同じようにへたにかけるよ」「いや、かけないよ」と言い合っている人がいます。実際にやってみればわかりますが、思ったほどにはへたにかけないのです。 |
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――へたにかくのはかえって難しいとの反論は、やっぱり本当だったのですか? その反論でいう難易度の意味は、これから説明する意味とは違うのかも知れません。ただちょっと考えても、ゴッホやピカソを上回る超へた絵画が簡単にかけるなら、匹敵する名画家がもっと多くいてもいいのに、現実にはへたくその権化はその2人以外は珍しくなっています。実態からみても、絵をへたにかくのは壁になっています。 |
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――なぜ人は、へたな絵をかけないのですか? 自己愛です。空想の話はやめて、私の場合で言います。実はキャンバス絵画をかいている時に、いつも自分の限界を感じます。それは絵を崩壊させようとしても、立て直そうとする力がはたらくからです。内なる無意識のおびえのようなものが、どこかでじゃますると考えられます。 |
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――どういうことが起きているのですか? 私の絵は、古今東西の誰の絵とも関係がありません。参考にするお手本や目指すゴールとなるアイドルがいない、孤立した制作です。しかし、今からやる話のポイントはそこじゃなくて・・・。そうした奇特な絵でも、しばらくかいているときれいに整ってきます。絵がひとりでに、きれいになろうなろうとするのです。奇特なりにエリが正され美化されて。絵でないものが、勝手に絵になろうとするのです。 |
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――それはつまり、腕の上達だと考えていいのですか? そう考えていいでしょう。絵を整然とさせる犯人は、画家の手慣れです。それは容易には食い止められません。前作よりも、より整然と、よりきれいに、好ましくなろうと突き進む絵に、作者が引きずられて負けてしまう感じで。 |
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――そういうものなのですか? これは絵に限らないでしょう。字をかいてもそうだし、楽器の演奏も、乗り物の運転も、やればやるほど流ちょうになって洗練されます。洗練された後で、洗練される前のたどたどしい動きを演じるのは困難です。 |
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――それはそうだとしても、絵でたどたどしい状態に戻るメリットがあるのですか? そうする目的は生気の回復です。長くやっていると、職人芸的な精緻さが生じます。例えば、丸をかけばコンパスを使ったようなパーフェクトサークル。直線に近い線を引いたら、直線になってしまい、見た目が真っ直ぐに見えて。製図ではあるまいし、それでは物言わぬ空虚な絵になります。 |
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――つまり、絵が黙ってしまうのを防ぐ目的で、わざとへたにかくわけですか? そういうことになるでしょう。整然としたものを作ってしまうと、要するに絵がデザイン化して死んでしまうわけです。 |
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――へたな絵をかくのは、技量のレベルダウンとは意味が違っていたのですか? 荒さや粗さ、雑を盛り込み、画面内を混沌とさせるわけです。事件の内包、あるいはエントロピーの増大と考えていいでしょう。年季が入って手が熟練してうまさが向上するほど、絵の中に工業製品のような粒ぞろいが生じます。絵は割り切れて平坦になり、人間否定の空気をつくります。そこをへたにかくことで、人間肯定へとくつがえすわけです。 |
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――うまいへたは、他人と比べた技量の話とは関係がなかったわけですね? 最初から習熟レベルの次元はお門違いだから、絵と絵を比べても無駄です。業界内外で、ここに話の混線と誤解があるのです。ゴッホよりもゆがみの少ない教会堂をかいたり、ピカソよりも人の顔に近い妻をかいても・・・単にありきたりの絵ができるだけ。正確さを競う話は、最初からお呼びでないわけで。そもそも似顔絵コンクールではなく、創造をやっているのだから。 |
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――それなら俗に言ううまいへたは、何を基準に言っているのですかね? 写真を基準にして、話をしているのだと思います。つまり人間カメラ至上です。画家がカメラと張り合っている前提で、絵を実写の撮影と比べてうんぬんしているわけ。デッサンの腕の高低を言っているのだから、そこには「うまい抽象画」という言い方さえないわけです。 |
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――うまい人がへたにかくからこそすごいのだ、というほめ方も必ず出てきますが? 役不足ぶりをたたえるフォローは、人間カメラの絶賛と表裏一体になっていて、見当違いだとわかります。技能を温存した余技の披露が目的ではなく、絵を製図のように単調にしない目的だからです。余裕を見せつける腕自慢の何ちゃってハメ外しではなく、絵がデザイン化しスムーズアート化するのを避けるために、へたにかくのだから。 |
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――だとしても、そのへたな絵が簡単にはできないのはなぜですか? 他人から役不足に見られず、能力不足に見られる不安も、ひとつの理由でしょう。「そんなへたでいいなら僕でもかけるさ」という頭でっかちが現れ、侮辱を始めるわけで。現に2012年の今も、ゴッホやピカソを能力不足として片づけたがる人は案外います。普通の画家なら、自分がへた呼ばわりされたらいやでしょう。 |
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――でも他人の目だけなら、ハードルはそこまで高くならない気がしますが? 最高のハードルは、もちろん自分の目です。へたにかいた絵は一種のかき損じだから、心痛むわけで。不正確な画調は、そもそも自分が許容できないから、自己検閲で削ることになります。私も一筆入れた後で、「ああ、やっちゃった」と筆の反逆の行き過ぎが気になることがあります。絵のその部分が夜に夢に出て、採用か却下かを一晩中迷い続けることがあるのです。 |
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――人間はそんなにも、思い切った行動ができないものなのですか? 便所の落書きと違って、自分の顔となる作品です。履歴書の写真と同じで、きれいに、ていねいに、感じ良くしたいのが普通の人情でしょう。「これ、何か変でしょ」と他人に思われる前に、自分で見ておかしければヘコみます。それが心苦しくて、常人は絵の中に芽生える調子外れを除去して回るわけです。冷やかし目的ならともかく、人生を絵に賭けながらへたにかくのは心の負担で、やってのける人は非常に少ないのです。 |
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――美を求める心というのは、とても保守的な世界なのですね? 昔、美術家を手伝うアルバイトをやった時でした。展示の日は決まっていて、当時の最先端の素材アートを作る仕事でした。麻袋の表に10個の棒状の陶片をボンドで貼り付けて並べるのですが、その人は違和感が出ないよう気づかっていました。作品のどこにも、おかしいと感じるところを生じさせまいとして。まさに芸術の意味の勘違い、まさに創造の裏返しをみた思いです。何も起きていない作品は、何も伝えないのだから・・・ |
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――へたな絵をかく難しさは、自分を投げ出す難しさといえるのですか? 結局、そこが壁です。「へたでいいなら僕でも楽勝」と言う人も、いざ画材を買ってくれば体裁のいい、絵らしい絵の安堵の方を愛し、思いっきりへたにはかけないはず。回を重ねれば、へたにかくハードルは上がるから、やがて「絵は基本が大事だ」などと心変わりするでしょう。向かうのは、へたではなく、べた。ゴッホやピカソがわからない壁と同質です。 |
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――ぶち切れて、やけのやんぱちで大暴れしたら、何とかなりませんか? それもやってみればわかることですが、自暴自棄だとテンションの綱は切れてしまって、だらけた絵になります。ゴッホやピカソのような、凝縮した濃密な作品にはならないのです。 |
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――へたにかくこと自体は、だんだんと手慣れていかないのですか? 板につかず身につかず、一作ごとにリセットされる感じです。思えば遠くへ来たもんだ、と積み上がらない。油断すると絵の美化が一瞬で進むから、毎度ひっくり返す必要があり、へたぶりは安定継続しません。新作の下塗りを終えて一筆入れる前に、今度こそあり得ない絵をかいてやるぞ思っても、結局あり得る絵が残されて、「まただめだった」と次回へ持ち越しになります。 |
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――絵をわざとへたにかくことは、今の時代でも重要なのですか? 実質は、破壊的創造と同じことです。西洋美術史で明示的にへたな絵に挑戦したのは印象派が始まりで、それは写実との決別、つまり写真との棲み分けでした。以降はへたな絵に意味が出て、しかし美術の世界で一番もめる是非論になっています。 |
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――うまいへたをめぐる攻防は、局地的どころか大局的な問題だったのですね? 作品をわからない人が急増した原因は、カメラの開発によって起きたパラダイムシフトです。デフォルメ罪悪説とでもいえる道徳観が、美術の世界に残ってしまいました。画家をカメラ役とみるか、カメラ役でないとみるかで価値観は正反対に分かれ、両者を隔てる高い壁ができているのです。 |
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